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バルセロナ五輪で金メダリストの柔道家・古賀稔彦さんの人物・来歴

皆さんは、古賀稔彦さんをご存じでしょうか?

古賀稔彦さんは、1992年・バルセロナ五輪・柔道男子71キロ級金メダルの柔道家です。

そこで今回は、古賀稔彦さんのプロフィール・人物・経歴をご紹介します。

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プロフィール

古賀稔彦(こがとしひこ)さんは、日本の柔道家(八段)。

環太平洋大学教授(弘前大学博士(医学))。

日本健康医療専門学校校長。

1967年(昭和42年)11月21日生まれ。

2021年(令和3年)3月24日死去。

佐賀県三養基郡北茂安町(現・みやき町)出身。

1992年、バルセロナオリンピック・柔道男子71kg級・金メダリスト。

血液型はA型。

身長169cm。

人物

世田谷学園高等学校、日本体育大学卒業。

日本体育大学助手、全日本柔道女子強化コーチ(2005年11月末退任)を経て、2007年から環太平洋大学体育学部 体育学科教授兼女子柔道部総監督。

2014年から全日本柔道連盟女子強化委員。

古賀塾塾長。

弘前大学大学院 医学研究科後期博士課程修了。

学位は博士(医学)。

日本健康医療専門学校校長。

常に一本を取りに行く柔道と、小柄な体からの切れ味鋭い技の数々、豪快な一本背負投が得意技であることから「平成の三四郎」の異名をとった。

来歴

柔道を習っていた兄の影響で、小学1年生から柔道を始め、中学1年で上京。

柔道私塾講道学舎に入門する。

世田谷区立弦巻中学校から世田谷学園高等学校、日本体育大学体育学部武道学科に進み、在学中はそれぞれ数々のタイトルを獲得、怪我を克服しながら順調に成長する。

1988年

1988年、ソウルオリンピックで、オリンピック初出場するも、3回戦で敗退。

1990年

1990年、当時75kg前後という軽量にもかかわらず、体重無差別の全日本柔道選手権大会で、重量級の選手を次々と撃破し、決勝進出。


決勝で当時最重量(95kg超)級の世界チャンピオンだった、小川直也さんと対戦、足車にしとめられ、惜しくも準優勝。


古賀さんの回顧によれば「柔道の試合で自分の体が宙に飛んだのはあれが生まれて初めて」だという。

1992年

1992年、バルセロナオリンピック選手団主将を務める。

バルセロナオリンピック直前に、吉田秀彦さんとの乱取り中に左膝を負傷。

ひざの痛みに加え、運動できないことにより減量も思うようにならない困難を乗り越え、痛み止めを打ちながら金メダルを獲得した。

TBSテレビは、年末のスポーツ名場面ベスト100の第2位に、この金メダルを選んでいる。
(ちなみに、1位は、同じバルセロナオリンピックにおける女子100メートル平泳ぎ、岩崎恭子さんの金メダル)。

1996年

1996年、アトランタオリンピック選考会では、一本負けを喫したが、過去の実績から選出された。


決勝まで進んだが、ジャメル・ブーラ氏に敗れ銀メダル。

2000年

2000年、現役を引退し、指導者になり、全日本女子柔道チーム強化コーチを務める。

2003年

2003年4月からは、子供の人間育成を目的とした、町道場「古賀塾」を、神奈川県川崎市高津区に開塾。

2004年

コーチとして、2004年アテネオリンピックでは、愛弟子である谷本歩実さんが金メダルを獲得、谷本さんが古賀さんに抱きついて喜ぶ場面が放映された。

2005年

2005年8月、24時間テレビ 「愛は地球を救う」(日テレ)の企画“百人掛け”を実施、72人で終了した(72勝0敗)。

脱水による全身痙攣でドクターストップ。

最後の相手は兄だった。

2007年

2007年4月からは岡山県岡山市にある環太平洋大学柔道部の総監督に就任。

2008年

2008年2月13日、明治時代に活躍した、徳之島出身の徳三宝を称える歌「柔道一代 徳三宝」で、CDデビューを果たした。

2008年6月、東京都台東区浅草橋にある日本健康医療専門学校の校長に就任。
同年、弘前大学大学院で、スポーツ医学研究を始める。

2012年

2012年3月に、弘前大学大学院で、博士(医学)の学位を取得。

2021年

2021年3月24日、癌の為、自宅にて逝去。53歳没。

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