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こんにちは赤ちゃんでレコード大賞・梓みちよ氏のプロフィール・略歴

皆さんは、歌手で女優、梓みちよさんをご存じでしょうか?

1960年代から1970年代を中心に数曲のヒットを飛ばし、アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリーを持ちつ、素敵な女性です。

この記事では、プロフィール・略歴・人物をまとめたのでご紹介します。

プロフィール

梓みちよ氏

梓 みちよ(あずさ みちよ、1943年6月4日 – 2020年1月29日)さんは、日本の歌手、女優。

本名、林 美千代(はやし みちよ)。

血液型はO型。

株式会社アラベスク所属で株式会社プロダクション尾木と業務提携。

福岡県福岡市博多区出身。

福岡女学院中学校・高等学校2年中退。

宝塚音楽学校中退。

1960年代から1970年代を中心に数曲のヒットを飛ばしました。

アメリカンポップスから歌謡曲まで幅広いレパートリーを持ちます。

略歴

1960年、福岡女学院高校2年中退で宝塚音楽学校に入学。

同校在学中に渡辺プロダクションのオーディションに応募し合格し、上京し契約します(同校は中退)。

約1年間のレッスンを経て、1962年に“ボサノバ娘”のキャッチフレーズでキングレコードより「ボッサ・ノバでキッス」でデビューし、歌手として本格的に活動を始めます。

1963年7月、『夢であいましょう』の今月の歌として発表された「こんにちは赤ちゃん」(作詞・永六輔さん、作曲・中村八大さん)が大ヒットとなり、同年12月の第5回日本レコード大賞の大賞を受賞。

また『第14回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たし、人気歌手としての地位を得ました。

また同曲は翌1964年3月の第36回選抜高校野球大会の開会式入場行進曲に採用されました。

更には1964年5月に東京都文京区の椿山荘で開かれた学習院初等科同窓会に招待されて、昭和天皇の御前でこの歌を披露しました。

明治時代以降において日本芸能界初の天覧歌謡曲となります。

しかしその後は歌手として人気が一時低迷、1969年の『第20回NHK紅白歌合戦』まで7年連続出場していた紅白歌合戦も翌1970年に落選、1973年まで4年間出演出来ませんでした。

1971年に俳優の和田浩治さんと結婚しましたが、翌1972年に離婚しています。

1974年には床に座り込んで歌う「二人でお酒を」(作詞・山上路夫さん、作曲・平尾昌晃さん)が久々に大ヒット。

同曲で第5回日本歌謡大賞・放送音楽賞、同年末の第16回日本レコード大賞・大衆賞をそれぞれ受賞し、また『第25回NHK紅白歌合戦』にも5年ぶり8回目の復帰出場を果たし、イメージ・チェンジを成功させました。

一方、1971年7月から1978年2月まで『新婚さんいらっしゃい!』(司会・桂三枝さん)の2代目アシスタントを務めていました。

1975年末の『第26回NHK紅白歌合戦』は、第二次世界大戦中に流行したドイツの歌謡曲「リリー・マルレーン」を日本語詞で歌唱。

1976年は「メランコリー」(作詞・喜多条忠さん、作曲・吉田拓郎さん)が翌1977年にかけてロングヒット。

同曲で1976年末に第18回日本レコード大賞・編曲賞(編曲・萩田光雄さん)を受賞し『第27回NHK紅白歌合戦』に3年連続で出演しました。

1979年、レコード会社をCBS・ソニーに移籍。

同年日本専売公社「パートナー」のCMソングに採用された「よろしかったら」(作詞・阿木燿子さん、作曲・筒美京平さん)がスマッシュヒット。

1982年、前年の1981年5月に37歳の若さで急逝したシンガーソングライター・大塚博堂さんの「トマトジュースで追いかえすのかい」(作詞・阿久悠さん、作曲・大塚博堂さん)をカバーしました。

1992年には『第43回NHK紅白歌合戦』に16年ぶり11回目の紅白カムバック出場を果たし、同1992年6月に亡くなった作曲家・中村八大さんを偲んで「こんにちは赤ちゃん」を歌唱しました。

自身の持ち歌である「こんにちは赤ちゃん」を長年コンサートで自分で封印し歌いませんでした(テレビ番組などではその限りではありませんでした)。

その理由は「この歌は今、私にとって重すぎる」、「いまさらこの歌は私には似合わない」などというものでしたが、2002年の40周年記念コンサートでのアンコールの際に「初めて、心からこの歌の素晴らしさを理解することが出来た。こんな良い歌を今まで歌わなかったのか、情けない」と言い、封印を解き歌唱。

2006年には「この曲は私にとって世に出してもらうきっかけであり、一番の宝物だから、大切にしよう。40年かかって、そんな気持ちになれたから、アンコールの最後に、やっと歌えたんです」と明かしました。

以後はステージでも必ず歌うようになりました。

「良い歌は古い歌でも後輩の歌でも関係なく歌っていきたい」とJポップ、歌謡曲からタンゴ、シャンソンなど幅広いジャンルの歌を唄っています。

2020年2月3日、東京都内の自宅で1月末に死去していたことが公表されました。

所属事務所によると、出演番組の打ちあわせで1月29日に訪れたマネージャーが、亡くなっていた梓さんをみつけたといいます。

76歳没。

人物

『さんまのまんま』第69回(1986年10月6日)に出演した時、明石家さんまさんの失礼な言動に対し怒り、グラスのシャンパンをさんまに対してかけました。

後日謝罪し、さんまさんにブレスレットをプレゼントしました。

2016年7月11日「こんにちは赤ちゃん」の作詞家・永六輔さんが同年7月7日に83歳で逝去の報道を受け、梓さんは「突然の訃報にただ驚いております。最後にお会いしたのは2年前『夢であいましょう』のイベントで、その時は『こんにちは赤ちゃんのアンサーソングを作ろうよ』の話で盛り上がり、お元気な印象でした。私がデビュー間もない頃に永さん作詞、中村八大さん作曲の『こんにちは赤ちゃん』の曲を頂いた時『ママでもないのにどう歌えばいいんですか?』と泣きそうになりながら聞いた処『いいかい、女性はみんな母性本能があるんだ。胸に玉のようなかわいい赤ちゃんを抱いていると思って歌えばいいんだよ』とアドバイスを頂きました。その言葉が昨日のように思い出されます。永さんなしでは『梓みちよ』という歌手は誕生しませんでした。感謝の気持ちしかありません。有難う御座いました。ご冥福をお祈り申し上げます」と追悼のコメントを発表しました。

悟り人
悟り人

以上、お読みいただきありがとうございました。

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