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脚本家・橋田壽賀子(はしだすがこ)さんのプロフィール・来歴・人物

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皆さんは、タレント、橋田壽賀子(はしだすがこ)さんをご存じでしょうか?

脚本家・劇作家として活躍していた女性です。

そこで、この女性のプロフィールと来歴・人物像をご紹介します。

プロフィール

橋田 壽賀子(はしだ すがこ、1925年〈大正14年〉5月10日 – 2021年〈令和3年〉4月4日)さんは、日本の脚本家、劇作家、タレントです。

本名は岩崎 壽賀子(いわさき すがこ)(旧姓:橋田)。

1949年(昭和24年)、松竹に入社し、脚本部に配属。

1964年(昭和39年)『袋を渡せば』でテレビドラマの脚本家デビュー。同年、東芝日曜劇場のために執筆した『愛と死をみつめて』の脚本が話題となって以後、テレビドラマの脚本家として話題作・ヒット作の数々を世に送り出しました。

代表作は『おんな太閤記』『いのち』『橋田壽賀子ドラマ おんなは一生懸命』『春日局』『渡る世間は鬼ばかり』『なるようになるさ。』シリーズなど。

来歴・人物

日本統治時代の京城(現:大韓民国・ソウル)で1925年(大正14年)に生誕。

勉学のため帰国するまでの9年間を朝鮮で過ごしました。

父親は、チタンを産出する鉱山と土産店を営んでおり、母も店に出て忙しく、「オモニ」と呼ばれていた近所の主婦が世話をしました。

大阪府立堺高等女學校(現:大阪府立泉陽高等学校)、日本女子大学文学部国文学科卒業(卒業論文は「新古今和歌集における<つ>と<ね>の研究」)。

この後、東京大学を受験するも失敗。

学者になる事を諦め同時に受験をしていた早稲田大学第二文学部国文科に入学、その後芸術科に転科の演劇専修に移り、中退。

女学校時代は文章が苦手でした。

その当時、日本軍兵隊への慰問文がコンクールで入賞したこともありましたが、それは母が壽賀子さんの名前を使って書いたものでした。

早稲田大学在学中には学生劇団「小羊座」に入って役者を務めたほか、久板栄二郎さんの脚本塾に通って演劇の執筆を始めました。

1949年(昭和24年)、松竹に入社して脚本部所属となり、松竹最初の女性社員となりました。

最初の脚本の仕事は、1950年(昭和25年)公開の映画『長崎の鐘』(監督:大庭秀雄さん)における新藤兼人さんの手伝いでした。

初めて単独で脚本を執筆した作品は、1952年(昭和27年)公開の映画『郷愁』(監督:岩間鶴夫さん、主演:岸恵子さん)です。

1959年(昭和34年)、秘書への異動を提示されたのを機に松竹を退職し、独立作家となります。

ただし、それから3年間ほどはテレビ局へ原稿を売り込みに行っても採用されなかったため、小説や漫画の原作を書くなどしました。

1964年、『袋を渡せば』で作家デビュー。同年、東芝日曜劇場『愛と死をみつめて』の脚本が話題となり、テレビドラマの脚本家として名を高めました。

41歳の誕生日であり、東京放送の創立記念日でもある1966年(昭和41年)5月10日、当時TBSプロデューサーだった岩崎嘉一さん(誕生日の関係で5歳あるいは4歳下)と結婚。

結婚式の仲人は石井ふく子さんが務めました。

岩崎さんが1988年9月24日に肺腺がんの宣告を受け、もしこのことを夫が知ったら自殺するのではないかと思い、「夫には本当のことを言わないでください。お願いします」、懇願する橋田さんに医師は渋々、「では肋膜炎ということに」と答えました。

翌年元日から始まるNHKの大河ドラマ「春日局」の準備をしていましたが、岩崎さんの看病をしながら1年続くドラマの脚本を書き上げる自信がなく、橋田さんが石井さんに相談すると「いま番組から降りたら嘉一ちゃんは、自分ががんだって気づくかもしれないよ」と首を横に振りました。

1989年(平成元年)9月、死別。晩年の岩崎さんとは、別荘地として知られる「熱海自然郷」で暮らしました。橋田さんは当時を「私は若くして両親を亡くしている。一人っ子なのできょうだいもいない。そしてたった一人の家族だった夫を、こうして失った。」と回顧しています。

静岡県熱海市で柴犬の「さくら」と暮らし、東京〜熱海間を往復する生活を送りました。

自宅は急峻な玄岳の頂上付近にあり、自動車を自ら運転して往復していました。

1992年(平成4年)、亡夫の岩崎さんの遺産などを元手に「橋田文化財団」を設立。理事長に就任し、橋田賞を創設しました。

2014年(平成26年)5月、『女性自身』で、同年4月開始の『なるようになるさ。』第2シリーズの視聴率低迷が主たる理由で脚本家業の引退を示唆していると報じられました。橋田さん本人は同誌の取材に対し、「引退したいですよ。でも、させてもらえないでしょうね」と語りました。

2015年(平成27年)8月20日、フジテレビ『ノンストップ!』のインタビューで「今の俳優さん達、名前も分からない。これじゃ(脚本)書けないから仕事が来ない」「ミステリーとか不倫ものとかばかり。普通のホームドラマが生きられない時代になった」と語り、改めて脚本家引退を示唆しましたが、その後引退報道に関する週刊女性の取材に対して「お仕事はまったく来ないです。いま、ホームドラマなんかやるところはないですから。私の時代じゃないと思いますよ。でも、引退はしません。また私が書きたいものを書かせてくれるところが出てきたら書かせていただきます。ただ、今はお休みして、充電中です」と引退を否定しました。同年10月30日、日本政府より脚本家として初(監督作品も存在する脚本家を除く)となる文化功労者に選出されたことが発表されました。

2021年(令和3年)2月下旬から、急性リンパ腫の治療のため東京都内の病院に入院。3月からは自宅のある静岡県熱海市内の病院に移り、治療を続けました。4月3日に自宅に戻り、翌4日9時13分に死去しました。95歳没。臨終は同じ熱海に居を構える泉ピン子さんが看取っています。橋田さんの遺志により葬儀は行わず、同月5日に火葬されました。

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