皆さんは、米西部劇映画「OK牧場の決斗」出演名優・カーク・ダグラス(Kirk Douglas)さんをご存じでしょうか?
1950~60年代を代表するハリウッドスターの座を不動にした素晴らしいアメリカの俳優です。
この記事では、プロフィール・略歴・人物をまとめたのでご紹介します。
プロフィール
カーク・ダグラス(Kirk Douglas, 1916年12月9日 – 2020年2月5日)さんは、アメリカ合衆国出身の俳優・映画プロデューサー。
生い立ち
帝政ロシア(現ベラルーシ共和国)ホメリからの移民、ダニエロヴィッチ夫妻の子としてニューヨーク州のアムステルダムに生まれました。
夫妻は先に渡米していた兄が身元引受人となって移住した際にその兄に倣って“デムスキー”という苗字を名乗っており、カークも“イジー・デムスキー”として育ちます。
貧民街に暮らし、家計を助けるために少年時代は新聞配達から露天商、庭師など多くの職を転々としつつ、学業に勤しみました。
学費を借金で賄いセントローレンス大学へ進み、その返済のために件のアルバイト生活の他にボクシングの試合に臨み、ファイトマネーを稼いだりナイトクラブや街頭で歌って生計を立てました。
高校の時に、自分の夢は役者になることだということを改めて認識し、その夢を叶えるべくアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツへ入学し、その才能を開花させ、特別奨学生ともなりました。
ローレン・バコールさんはこの時の同窓生。
1941年に徴兵されそのまま第二次世界大戦中は海軍に従軍したが1944年に負傷のため除隊しています。
徴兵時に戸籍上の本名を「カーク・ダグラス」と改めました。
キャリア
1941年、卒業公演として行われた『春よ再び』(原題: Spring Again)で歌うメッセンジャーボーイを演じブロードウェイ・デビューを果たしました。
除隊後、ニューヨークでラジオドラマを中心とする仕事に就き、舞台へも出演していたが、ローレン・バコールに薦められて1946年、映画『呪いの血』(原題: The Strange Love of Martha Ivers)で銀幕のデビューを果たします。
このことが転機となり、1949年にブロードウェイでもチェーホフの『三人姉妹』でアンドレイ役での出演を果たしたが、ダグラスさんはその活躍の場をハリウッドへ移します。
後年の硬派なイメージは8本目の出演作品『チャンピオン』以降であり、当初は内向的な性格俳優というようなイメージが強いです。
『チャンピオン』はアカデミー編集賞とゴールデングローブ撮影賞を受賞し、カークさん本人もアカデミー主演男優賞にノミネートされました。
そして、西部劇映画『死の砂塵』(原題: Along the Great Divide)へ出演しスターダムへと登りつめました。
1947年には税金対策の為に母の名に因んだ独立プロダクション「ブライナカンパニー」を興し本格的な製作参入は1955年の西部劇「赤い砦」です。
1956年には同期デビューの親友でもあるバート・ランカスターさんと協定を結び製作者ハル・B・ウォリスさんとの契約を有利な方向に進め『OK牧場の決斗』でW主演。
1960年には自らが主演・製作総指揮を執って製作費1200万ドルの大作『スパルタカス』を製作、当時赤狩りで排斥され投獄までされていたハリウッドテンの一人、ダルトン・トランボを起用し、正式にクレジット、彼らの実質的復活に手を貸しました。
シリアスな役柄が似合うイメージの傍ら、『海底二万哩』で見せた軽妙な演技や、創世記のテレビ番組『ジャック・ベニーショー』でのミュージカルパフォーマンス等、多彩なタレント性を持ちます。
同時期にエージェントだったサム・ノートンさん(本業は弁護士)によるギャラの搾取が発覚したのは良妻による助言でした。
追い討ちをかけるように合衆国国税庁から追徴課税75万ドルの支払いを命じられるが1958年公開の映画『ヴァイキング』のヒットによって全額支払いました。
1973年には西部劇映画『明日なき追撃』でメガホンを執りつつ主演をこなしたが、西部劇自体の衰退期にあったこともあって大きな評価は得られませんでした。
また、同年にはテレビミュージカル版『ジキルとハイド』(作曲:ライオネル・バート)にも主演しています。
2009年3月、自伝的ワンマンショー『備忘録』(原題: Before I Forget)をカリフォルニア州、カリバーシティのセンターシアターで演じ、この映像記録は2011年1月に公開されています。
2011年1月の時点でマイスペースにブログを掲載する最高齢のハリウッドスターであり、健脚で、2010年秋にも息子のマイケル・ダグラスさんをアン夫人と見舞う姿を、パパラッチに撮影されています。
2011年2月、第83回アカデミー賞授賞式で助演女優賞のプレゼンターとしてコダックシアターの舞台に立ちました。
私生活
1943年11月2日、アメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツ時代の同級生で女優のダイアナ・ダグラスさんと結婚し、二人の息子をもうけました。
長男は俳優のマイケルさん、次男は映画『コカイン・ブルース』等のプロデューサー、ジョエル・ダグラスさん。
ダイアナさんは1951年の離婚後も女優活動を続け、ベン・ケーシーやわんぱくフリッパー等のテレビ番組で活躍しています。
1954年5月29日、カークはアン・バイデンスさんと結婚、再び二人の息子をもうけました。
映画『フレッチ/殺人方程式』 のプロデューサー、ピーター・ヴィンセント・ダグラスさんとテレビドラマシリーズ『たどりつけばアラスカ』等に出演していた俳優のエリック・ダグラスさんだが、エリックさんは、薬物過量摂取による入院や、飛行機内での揉め事による逮捕を繰り返し、2004年に自宅のアパートで死体で発見されました。
1991年にヘリコプターでの事故に見舞われたことがきっかけで、自らの人生を振り返りながらユダヤ主義についての思索を深めるようになりました。
1996年に、脳梗塞を患い言語障害が残ったものの、2006年、卒寿の祝賀会には出席し元気な姿を見せています。
2015年12月、99歳の誕生祝いには、映画・テレビ基金に1500万ドルを寄付し、「カーク・ダグラス・ケア・パビリオン」と名付けられました。
寄付金は、アルツハイマー病を患っている映画・テレビ業界の人々を収容する施設を建設すると発表しました。
2020年2月5日、103歳で死去。
日本との関わり
1960年、ブライナカンパニーの代表として、すでにアメリカでも名を轟かせていた日本の特撮監督円谷英二さんに長編アニメーション映画の制作を依頼すべく東宝に打診するも、東宝側の判断で成立しませんでした。
カークさんは、当時「海底二万哩」への出演を通じて良好な関係にあったウォルト・ディズニーさんをバックに円谷さん本人へも直接打診したが、人的資源の確保や財務面から条件が折り合わず頓挫しています。
1964年に自ら製作したポリティカルフィクション「5月の7日間」宣伝で来日の際、「三船敏郎に会いたい!」と、「赤ひげ」撮影中のロケ現場に直行し、黒澤明さんと三船さんとスリーショットも実現している。
1960年代に夫人と来日し、その模様は『週刊平凡』に掲載されました。
1966年、FNS系列の番組『スター千一夜』に水野晴郎さんとのインタビューに応える形で出演し、その後1975年から1980年まで、味の素ゼネラルフーヅのコーヒー「マキシム」のCMキャラクターに起用されています。
また、1966年の大映映画『大魔神』のキャラクター《武神像》の顎に割れ目があるのは、カーク・ダグラスさんの表情からインスパイアされたとされています。
日本語吹き替えは、ほとんどの作品で宮部昭夫さんが担当しています。
以上です。長文お読みいただきありがとうございました。
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